愛の四十八手 続 廿、岩清水
68.岩清水
【読み】いわしみず
【分類】オーラル
※無断複製禁止
鴛鴦閨房秘考の最後は岩清水です。名前の由来は言うまでもありません。山登りをしてしていて、喉が渇いたときに岩の割れ目から出る清水を見つけ喉を潤す時の水の美味しさは例えようがありません。組方は見ての通り難しいことはありません。彼氏の胸に尻を乗せオメコを舐め易い様にして上げるだけです。
愛し合った後の喉の渇きを潤すのか?期待に胸をときめかせ喉が空からになったので、前戯を兼ねて彼女の清水を飲むのか?ただ、充分に潤っていないと清水は出ません。
彼女を上手くリードして気持ち良くさせないとならないのです。清水が出るまで充分に舌を使ったり思い切って吸って嫌らしい音を立てるのも興奮するものです。
彼女は居茶臼と同じ要領で彼氏の鼻や口、舌が気持ちの良いところに当たる様に腰を使って教えて上げましょう。
ともすると、勘違いで感じない処ばかり責められても高揚しません。言葉を口に出すよりも腰を使ってボディコミュニケーションを取るのもおつなものです。
これで鴛鴦閨房秘考の四十八手+20は終わりです。振り返って見ると、思っていた以上に時間が掛かってしまった。その上、最後は予約公開にしたつもりが、下書きのままで一ヶ月以上気が付かない失態までしてしまった。
続きをどうしようかと考えていますが、なかなか良いものが見つかりません。
体位の名前を、ネットや本に載っているもので整理するのも面白いかとも考えて見ました。これも、色々な名前があり説明がないもの、有っても読むと首を傾げたくなるものもあり、一朝一夕に出来る内容ではないと思い知りました。
その後知った、「女閨訓」を取り上げることにしました。大正時代の三大美女と言われた(人によっては外す様ですが)江木欣欣が書いたとされるものです。嫁ぐ娘のために書いたと言うものの、彼女が20歳代後半に書いたもの。また、晩年は子供が居なかったことを悔やんでいたと周りの人に漏らしていたことからも、実子はません。(夫、衷は二人の養子を設けている)
波瀾万丈の人生だったことは間違いないでしょう。愛媛県令の父と女中との間に生まれ、直ぐに養女に出され、養家が困窮していたため神田明神下の花町で半玉となり、16歳で細川家の家老と最初の結婚をするもの、1年余りで死別。
また、神田に戻り、美貌から有名になり、間もなく江木衷(19歳上)と結婚。広い趣味の持ち主であり、自宅に関係者を集め、パーティーを開くなど社交場となったようだ。
関東大震災で罹災し、軽井沢の別荘にあったもの以外全て失い、2年後に夫が亡くなる。その後は、寂寞(せきばく)とした生活をおくり、昭和5年異母兄弟の家で(シャープの創業者宅)自殺し生涯を閉じた。
女閨訓は、序の最後に明治34年4月とあるので28~29歳頃に書かれたことになる。
再婚の時期が書かれていないものの、衷との結婚の後だと思う。詩や書画に造詣があった様なので、社交を通じ人に頼まれて書いたのかもしれない。
若くして半玉となった経緯から芸者としの勉強もしていたことは間違いないだろう。芸者と言うと余り良い印象を持たない人も多いと思うが、花魁に近い存在ではないだろうか?歌や踊りだけではなく、インテリ層とも話が出来る知識も要求される。一般庶民がお金を出しても、呼べない存在が芸者。
その幅広い知識の中に男と女の関係も含まれていたと想像が付く。国粋主義者ではないだろうが、欧米の慣習ではなく、江戸時代の臭いを感じさせる内容になっている様に思う。
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愛し合った後の喉の渇きを潤すのか?期待に胸をときめかせ喉が空からになったので、前戯を兼ねて彼女の清水を飲むのか?ただ、充分に潤っていないと清水は出ません。
彼女を上手くリードして気持ち良くさせないとならないのです。清水が出るまで充分に舌を使ったり思い切って吸って嫌らしい音を立てるのも興奮するものです。
彼女は居茶臼と同じ要領で彼氏の鼻や口、舌が気持ちの良いところに当たる様に腰を使って教えて上げましょう。
ともすると、勘違いで感じない処ばかり責められても高揚しません。言葉を口に出すよりも腰を使ってボディコミュニケーションを取るのもおつなものです。
これで鴛鴦閨房秘考の四十八手+20は終わりです。振り返って見ると、思っていた以上に時間が掛かってしまった。その上、最後は予約公開にしたつもりが、下書きのままで一ヶ月以上気が付かない失態までしてしまった。
続きをどうしようかと考えていますが、なかなか良いものが見つかりません。
体位の名前を、ネットや本に載っているもので整理するのも面白いかとも考えて見ました。これも、色々な名前があり説明がないもの、有っても読むと首を傾げたくなるものもあり、一朝一夕に出来る内容ではないと思い知りました。
その後知った、「女閨訓」を取り上げることにしました。大正時代の三大美女と言われた(人によっては外す様ですが)江木欣欣が書いたとされるものです。嫁ぐ娘のために書いたと言うものの、彼女が20歳代後半に書いたもの。また、晩年は子供が居なかったことを悔やんでいたと周りの人に漏らしていたことからも、実子はません。(夫、衷は二人の養子を設けている)
波瀾万丈の人生だったことは間違いないでしょう。愛媛県令の父と女中との間に生まれ、直ぐに養女に出され、養家が困窮していたため神田明神下の花町で半玉となり、16歳で細川家の家老と最初の結婚をするもの、1年余りで死別。
また、神田に戻り、美貌から有名になり、間もなく江木衷(19歳上)と結婚。広い趣味の持ち主であり、自宅に関係者を集め、パーティーを開くなど社交場となったようだ。
関東大震災で罹災し、軽井沢の別荘にあったもの以外全て失い、2年後に夫が亡くなる。その後は、寂寞(せきばく)とした生活をおくり、昭和5年異母兄弟の家で(シャープの創業者宅)自殺し生涯を閉じた。
女閨訓は、序の最後に明治34年4月とあるので28~29歳頃に書かれたことになる。
再婚の時期が書かれていないものの、衷との結婚の後だと思う。詩や書画に造詣があった様なので、社交を通じ人に頼まれて書いたのかもしれない。
若くして半玉となった経緯から芸者としの勉強もしていたことは間違いないだろう。芸者と言うと余り良い印象を持たない人も多いと思うが、花魁に近い存在ではないだろうか?歌や踊りだけではなく、インテリ層とも話が出来る知識も要求される。一般庶民がお金を出しても、呼べない存在が芸者。
その幅広い知識の中に男と女の関係も含まれていたと想像が付く。国粋主義者ではないだろうが、欧米の慣習ではなく、江戸時代の臭いを感じさせる内容になっている様に思う。
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