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黄素妙論 道三之跋

黄素妙論 道三之跋

右此みぎこのさつ大明たいみんより國像こくぞう相交あいまじへたる印本我朝いんほんわがちょうるといえども、そのしゅ
深遠幽轍しんえんゆうてつにして淺覺せんがくその術卒じゅつただちならひがたし
そのほうたやすおこないかたきゆえそのことばまこと卑俗ひぞくなりもいえど明朝文字みんちゅうもじやまとこと
やわらげてひととして陰陽和合いんようわごうみちやす婚姻こんいん交姤こうごうおこな
やすからしめんとするなりあなが淫情いんじゅうもよほ遊興ゆうきょうこととするにあらず、
天眞てんしん至寶たもたしめ、壽算じゅさん永久えいきゅうならしめんとのみ
                   洛下雖知
                    苦齋静翁
                       道三dohzanSign
      于時天文二十一年正月八日
    奉授興
    松 永 彈 正 忠 殿
             畏 可 授


つゆ明けまでには思ってましたが、例年より早く梅雨が明けてしまい間に合いませんでした。
ようやくおわりです。ここで、明から天皇(朝)に送られた印刷物をやまと言葉に翻訳したことが判る。
最初に医心方を見たのではと書いた。もう一度整理して考えると遣隋(唐)使が持ち帰った素女経などの写本を元にしたのではないだろうか。

その理由として
1.医心方は見られない
 984年に天皇へ献上され1554年に半井家に下賜され、幕末の安政年間まで秘蔵されていた。これが書かれた天文21年1月8日は、1552年頃でまだ宮中にあったものと考えられる。

2.医心方の元はどこへ
 医心方は全30巻からなり今で言えば青本。医術の集大成であり膨大な書物が遣隋使や遣唐使が持ち帰り編さんしたもの。元となった書物を全て宮廷が独占して出さないのはとは思えない。

医心方の底本はどこに消えたのかの疑問があった。槇佐知子全訳精解版の前書きを読むと、安政元年に保有していた半井家に幕府から蟄居(ちっきょ)を命じられ、やっと、期限付きで貸し出した。この際には、一部の引用文献?や写本があり、これらを各巻末に礼記して付けたものが安政版医心方だという。このことから、少なくても幕府が借り受けた時には引用した資料も半井家で保有していた事が解る。
その後、明治維新を経て現代はどうなっているか読み取れない。多分ないのでしょう・・・

3.大明とは何か
 「大明より國像を相交へたる印本我朝來くる」この一文を明国から朝廷へ送られたと読んで良いのか?
 現代は中国と呼び、戦前は支那、その前は清国と呼ぶのが一般的だと思う。清の前は明だった。
 ここで言う大明は、現代で言うところの中国の意味ではないか?

4.道三は写本を見ているに過ぎない?
 仮に「素女妙論」の印本(木版刷り)が朝廷に送られていたとしても、せいぜい数冊だろう。医心方が道三へ下賜されたのであれば、同様に下賜されただろう。天皇家からそのような厚遇を受けてはいないのだから写本が順当と考える。

5.双梅景闇集書(葉徳輝編)によれば、中国の文献資料に素女経が登場するのは、唐時代までその後は見当たらないと言う。 


6.医心方は丹波康頼が一人で編纂したのだろうか?彼はプロジェクトの責任者で門人が作業にあたったのではないだろうか?複数で行う場合は底本が1冊では作業に支障が出たのだろと予想することが出来る。解決手段として先ずは手分けし写本したのだろうと想像する。下書きも下だろうし複数のコピーが残っても不思議ではない。
医師であれば自分の手元にも欲しいと思うのが人情ではないだろうか・・・


7.色々考えて居たところに「浦島太郎」の面白い話を見つけた。桃太郎は性教育だ言われるが、浦島の原文は日本最古の好色本だと言う話。

そもそも、助けた亀に載せられて竜宮城へ行ったは後世の人が書き換えてもので、釣りしていたところ霊亀(くすしきかめ)に出会い失神してしまい、眠っている間に霊亀が美女に変わり竜宮城に連れていかれてしまう。
竜宮城で繰り広げれた歓待は、男女の行為で医心方からの引用だと云う。
ここで着目すべきは「浦島子伝」は9世紀の半ば、続篇の「続浦島子伝」は932年に成立したことが記録に残っているそうだ。医心方は984年だから50年以上古い。

『閨の秘伝を教えます-紅閨禁秘抄』 福田和彦 著 の「浦島太郎と医心方」に書かれています。

これは同じと納得のするものとして「魚比目」と「鴛同心」。これは、「三十法(第13章)」に出て来る体位。又、前戯の部分は「和志(第4章)」にそれを見る事が出来ると言うのだが・・・
前者は洞玄子の秘技。後者は、玉房秘訣,玉房指要,玄女経が引用され素女も登場する。
この説は大きくは間違っては居ないだと思います。
遣唐使が(8~9世紀に派遣)持ち帰ったものを読んで創作されたとしても矛盾がないからです。

以上のことから、一部の人は遣唐使などが持ち帰ったものを読むことが出来たのでしょう。
写本も書かれ、秘伝の書のような形で限られた人の間で受け継がれていた。
その様なものを道三が入手して翻訳したと思います。

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はじめまして

突然失礼いたします。『医心方』を調べていてたまたま通りすがったのですが、とても興味深い内容で思わずコメントさせていただきました。
「浦島太郎」や「桃太郎」がお伽噺の体裁をとったR18本だったと初めて知り、驚きました。元は子供に読み聞かせる用ではなかったということでしょうか。

個人的に気になったので、挙げられている疑問点について勝手ながら考えてみました。ご意見伺えればと思います。もし趣旨を読み違えていたらすみません。

1,2)
『医心方』は、現在国宝として東京国立博物館に所蔵されている元本・半井本とは別に、丹波家にも秘蔵されていたようなので、献上用とは別に複製を作っておいて、一部の人が閲覧できたのかもしれません。
あと仁和寺本の方がどのように写本されたのかも気になります。こちらも秘蔵本だったようですが、半井本よりはまだ閲覧の機会があったのではと思えます。半井家は火事にあって色々焼失しているようですし・・・

3)
>みぎこの一冊さつは大明より國像を相交へたる印本我朝に來ると雖も・・・

の部分ですが、京都大学図書館HPにある富士川文庫の影写データ(http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/mg5/image/mg5lhf/mg5lh0033.html)で見てみたところ、

>右此壹冊【みぎこのいっさつ】ハ大明(タイミン)より図像(ヅゾウ)を相交(アイマジヘ)たる印本(インホン)、吾朝(ワカチヤウ)へ来【きた】るといへども・・・

となっていました("、"と【】のルビはこちらで補いました)
「この一冊(素女妙論?)は図入りの版本であり、明国より我が国へ伝来したものだが・・・」といったところでしょうか。「朝」は朝廷というより、広義に「国」の意味で使っているのかなと思います。勘ですが。特に明代は印刷技術の進歩により、多くの書物が日本へ輸入された時期でもあります。

また明の正式な国名は「大明」ですが、ここで「中国(大陸)」という意味で使っていたかは難しいところです。『素女妙論』自体、明の嘉靖十五年に刊行された刷本ですし、万一明より前の中国大陸を指すのなら、何となく「唐(から、もろこし)」あたりを使いそうな気がします。

7)
『医心方』の種本である中国の医学書は当時の貴族階級や知識層で結構流通していたようです。
ただ891年ごろ成立とされる『日本国見在書目録』には『洞玄子』『玉房秘訣』『玉房指要』は見当たらず(『素女問』10巻、『素女経』1巻、『玄女経』1巻はある)、遣唐使は893年の帰国船で最後なので、920年成立とされる「続浦嶋子伝」までの約30年の間、あるいは『医心方』献上の984年までの約90年の間に、『洞玄子』以下が誰によってどのようにもたらされたかは謎です。「続浦嶋子伝」は『洞玄子』ではない書物を参照したのかもしれません。


長文失礼いたしました。

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