妹背閨房考「序説」 48
本を手に入れて直ぐに気になったのが四十八手の取り上げ方、序説は面白いと思っていなかったので省略しようと思った。
しかし、読んで見ると後段に、この本の生い立ちというか、どのように作られたか簡単触(ふれ)れらていて、新たな発見があった。原本を忠実にうつしとると、次のようなことが書かれている。カナ使いは原文のままなので「ひ」や「ふ」などは「い」と「う」に読み替えてください。
+++以下本文
序説
夫婦のちぎりに於てお互いの位置や姿勢は、実際に則して色々の意味合ひを持つものでありますが、その基本の形としてはほんま(男が上)、居茶臼(座る形)、茶臼(女が上)、横どり(向合ひに寝た形)、後どり(うしろからの形)、寝うしろ(寝てうしろからの形)、立て膝形(半分坐り形)、立ちぼぼ(立ってする形)などで、それに様々な変化を与えて多くの形が数えられ、我が国では古くから角力の手捌きになぞらえて「四十八手」と称えて居ます。
なほ、陰門に陰茎をはめ入れるだけで、適応な運動を無視した交形、変態、甚だしいのは曲芸的な形、俗に曲取りと言ふものなぞを数に入れれば相当な数にのぼるでしようが、健康を害せず、享楽を増し、性交の目的に好い影響を与える点から考えると、そこにおのづから制約された範囲に限られるのであります。
老子は
「若し長生きせんと欲せば当に須らく自ら生くべし。房中の事、能く人を生かし、能く人を殺す云々」と云って居りますが、まことにうがった言葉で、およそ交媾にあっては、より大いなる、より切実な快味感の満喫が熱望されねばなりません。それには所謂「お座なり」の通り一遍的な方法や形だけでは満足出来ないのであります。
例へば実際問題として妊娠の時など、必要の上からも、また享楽発展の上からも、それに応じた形が案出されるべきで、其の他時により機に応じて色々な形をとり、従って色々の快味を味ふことこそ天与の神技と申さねばなりません。
茲に編者は古来の四十八手を実用的に研究し飜組し、更に外来のものも取り入れ補足続編廿種を挙げ、特に優美な名称を選び、新味を加えて御参考に供する次第であります。
所掲種々の形態に於ける快味感は必ずや夫々深々たる妙味と共感を有するものである事を確信いたし居ります。
幸ひに諸賢、その泉の如く湧き出づる美味妙感を心ゆくばかり味はれんことを切望してやみません。
編者識
尚、巻尾に男根女陰十相を附して御覧に入れます。天与の宝刀、天惠の妙開、共に具にこれあって此の世は楽しく㐂(喜)楽の境に入ることが出来るのであります。
+++以上
この序説の主張が正しく、前回に書いたように妹背→鴛鴦の順に書かれたものならば、今日広く知られている四十八手の名称は、妹背閨房考が源流と言うことにななると思います。従って、名称は大正から昭和初期の頃に生まれたもので、江戸まで遡らない事になる。(幾つかは、江戸から呼ばれたものも有るのではないかとも思います)
名称は優美なものを選んだとあるが本のタイトルが不味かったのでは?
妹背(いもせ)=夫婦や夫婦の仲の意味がある。閨房は説明の必要はないでしょう!
要するに夫婦寝室考と言えるものです。他方で「鴛鴦」にした人の方が優美さを持ち合わせていたように思う。妹背閨房考ではなく鴛鴦閨房秘考ばかりが復刻されている現実がその証拠ではないだろうか?
また、古来のものに加え外来のものとある点に興味がひかれた。いわゆるオーラルセックスのものが含まれているが(椋鳥、さかさ椋鳥、二つ巴)、これを言っているのだろうか?この3つは69で、その、ほんま・茶臼・横取りとも言える。
鴛鴦を書いている際に少し浮いた感じがしていたがどうなんだろう?多くの春画を見た分けではないが、白光錦の類は(前戯としあそこを愛撫する構図)良く出くわす。しかし、69は見た記憶がないのも理由の一つ。いずれにしても、具体的にどれとは書かれていないために推測の域は出ない。
※3月3日追記---
葛飾北斎が描いた「富久寿楚宇(ふくじゅそう)」を忘れてた。構図はむく鳥(春画で読む江戸の色恋では二つ巴と説明していますが鴛鴦も妹背もむく鳥)です。クンニンはしているもののフェラはしていない。初期のものとしては「小柴垣草子(こしばがきぞうし」1299年の中にあるそうだ。しかし、古い写本にはなぜかなく、江戸中期ころから出て来ると言うもの??「増補新版 春画で読む江戸の色恋 白倉敬彦著」 に詳しく書かれています。
春画は誇張して描かれていて、女はおちょぼ口。巨大なものを口に含ませると美人が台無しになるからか?江戸の絵師たちはフェラチオしていない構図が多いようだ。歌川豊国「逢夜雁之声 第二部」に舐めるような構図のものがありむく鳥と言えますが・・・
こうなると、どれが外来のものなのか謎が深まるばかり。作者がクンニン+フェラの完全なものを見ていなかったからか?ウィキペディアによるとヨーロッパでは1790年にフランスで出版された本まではさかのぼれるそうだ!
---
体位の形として8つに分類しているところも面白と感じた。黄素妙論には九勢として9つが上げられてる。内1つは3Pなので二人となると8つになる。比較をすると、九勢には横取りがないし、鳳翔勢は男が立っているものの女は寝台で横に寝る形。立ちぼぼとと横取りの組み合わせとも言える違いがある。
黄素妙論は江戸時代に何度か発行されているようなのでルーツの一つと言えると思う。古いものと言えば「医心方」だが秘蔵や発禁処分などを受け広まらずいた。広く読まれる様になったのは戦後なのではないだろうか?(このあたりの経緯は長くなるので脚注扱いで最後に触れます)
最後に、老子の引用がありますが、そもそも老子は房中術について書いていないようです。(検索して見つかったページを読んだだけですが・・・)この種のことは、医心方でも取り上げられていることからも、古代中国では広く言い伝えられた内容のように思います。要するに、「精気を溜めることで若返ることが出来るが、無闇に施射すれば気を失い病に冒される」このことを言いたいのでしょう。そんなことよりも、切実な色欲をどうしてくれるか?と主張したかったのでしょう。
本文は前回書きましたとおり、暫く待って下さい。スキャンして拡大したら、ガリ版刷りの上に、紙も「わら半紙」(再生紙?)が使われていて、インクの滲みや、紙にもともとあった汚れ?などから字体が読み取りづらくしています。整理もしたいので暫く時間を下さい。
【医心方の経緯】
平安時代の984年に朝廷へ献上されたのが始まり。時代は下り16世紀、正親町(おおぎまち)天皇の時代に名医の半井瑞策に下腸さたが門外不出とした。ここまでは秘蔵され続けた。幕末になり圧力を受け期限付きで幕府へ貸与され1860年に履刻版(安政版医心方)が発刊された。幕府が倒れ明治に入ると政府は近代化を進めるため、ドイツ医学を取り入れ、それまでの東洋医学が見捨てられる。せっかく日の目を見た医心方も、今度は見捨てられた格好になった。
※同様に文化面でも西洋を尊ぶ風潮から、浮世絵も(春画やあぶな絵を含む)古紙同然に取り扱われた。パリに居たある日本人が、この紙たばを送らせ欧州で売られたことから、絵画などに影響を与えジャポニズムを生むとともに、大量のものがヨーロッパやイスラエルに(著名な収集家の死後、彼のコレクションが纏めてイスラエルへ寄贈されていたことが、近年になって判ったそうです)あり美術館などで展示されている。
20世紀に入り1907年に医学史を見なす動きから「日本医学叢書」が刊行されたが直ぐに発禁処分となってしまう。原因は28巻の房内編が猥褻だと判断されたためと言われる。(金港堂医心方事件)
(ここまでは 医心方〈巻28〉房内篇(リンク先はAmazon) 丹波 康頼 (著), 槇 佐知子 (翻訳) の「序」を参考にしました)
しかし、私は房内編がスケープゴートにされただけと思う。房内が猥褻なら28巻を除けば済んだはず。それを全て発禁処分にしたのは、医学会の思惑が見え隠れする。
今さら東洋医学などを持ち出されたら困ると考え、潰しにかかったのではないだろうか。傍証として、(言えるの自信はないが)明治天皇の脚気がある。当時の日本では脚気で亡くなる人が多く国民病になっていた。
天皇が患者となれば、第一線の医師団が作られ治療に当たったが一向に良くならない。一計を案じた側近が東洋医術の名医に頼んだところ、麦飯を食べろと言われ食事を変えたところ全快したと聞く。
この事実は公開されることなく、特に陸軍では多数の脚気による死者を出し続けている。海軍には脚気が少なかったことからも食事の問題。陸軍に入れば毎日銀シャリが食べられるがキャッチコピー化していた。いわゆる日の丸弁当が陸軍の通常食になっていたから脚気を蔓延させた言われる。脚気はビタミンB1の欠乏が原因で、白米はB1を破壊することが知られたのは後のこと。
東洋医術は科学的な証明によらずに経験則から纏められてものによるので説得力に欠け、非科学的と考えられたのでしょう。しかし、臨床のつみ重ねが重要と考えれば無視する事が正しいのか疑問を感じる。
日露戦争では、戦闘での戦死者と脚気による死者数は、桁が一桁違うと聞く。ロシア兵の証言にも日本兵はよろよろしている兵が多かったとも聞く。体がふらつくのは脚気の症状。海軍に発症が少なかったのは海軍カレーに象徴される様に洋食化した食事を出していたことから、ビタミンを副食から補っていたためだとも。
この国は自分達の利権やメンツに係わる問題になると、良いとこであっても闇に葬ったり反対する。
いつまでこの様なことを続けるのだろうか?政財官学・・・身の周りなど身近なところでもエゴがまかり通っている。(^^;;
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しかし、読んで見ると後段に、この本の生い立ちというか、どのように作られたか簡単触(ふれ)れらていて、新たな発見があった。原本を忠実にうつしとると、次のようなことが書かれている。カナ使いは原文のままなので「ひ」や「ふ」などは「い」と「う」に読み替えてください。
+++以下本文
序説
夫婦のちぎりに於てお互いの位置や姿勢は、実際に則して色々の意味合ひを持つものでありますが、その基本の形としてはほんま(男が上)、居茶臼(座る形)、茶臼(女が上)、横どり(向合ひに寝た形)、後どり(うしろからの形)、寝うしろ(寝てうしろからの形)、立て膝形(半分坐り形)、立ちぼぼ(立ってする形)などで、それに様々な変化を与えて多くの形が数えられ、我が国では古くから角力の手捌きになぞらえて「四十八手」と称えて居ます。
なほ、陰門に陰茎をはめ入れるだけで、適応な運動を無視した交形、変態、甚だしいのは曲芸的な形、俗に曲取りと言ふものなぞを数に入れれば相当な数にのぼるでしようが、健康を害せず、享楽を増し、性交の目的に好い影響を与える点から考えると、そこにおのづから制約された範囲に限られるのであります。
老子は
「若し長生きせんと欲せば当に須らく自ら生くべし。房中の事、能く人を生かし、能く人を殺す云々」と云って居りますが、まことにうがった言葉で、およそ交媾にあっては、より大いなる、より切実な快味感の満喫が熱望されねばなりません。それには所謂「お座なり」の通り一遍的な方法や形だけでは満足出来ないのであります。
例へば実際問題として妊娠の時など、必要の上からも、また享楽発展の上からも、それに応じた形が案出されるべきで、其の他時により機に応じて色々な形をとり、従って色々の快味を味ふことこそ天与の神技と申さねばなりません。
茲に編者は古来の四十八手を実用的に研究し飜組し、更に外来のものも取り入れ補足続編廿種を挙げ、特に優美な名称を選び、新味を加えて御参考に供する次第であります。
所掲種々の形態に於ける快味感は必ずや夫々深々たる妙味と共感を有するものである事を確信いたし居ります。
幸ひに諸賢、その泉の如く湧き出づる美味妙感を心ゆくばかり味はれんことを切望してやみません。
編者識
尚、巻尾に男根女陰十相を附して御覧に入れます。天与の宝刀、天惠の妙開、共に具にこれあって此の世は楽しく㐂(喜)楽の境に入ることが出来るのであります。
+++以上
この序説の主張が正しく、前回に書いたように妹背→鴛鴦の順に書かれたものならば、今日広く知られている四十八手の名称は、妹背閨房考が源流と言うことにななると思います。従って、名称は大正から昭和初期の頃に生まれたもので、江戸まで遡らない事になる。(幾つかは、江戸から呼ばれたものも有るのではないかとも思います)
名称は優美なものを選んだとあるが本のタイトルが不味かったのでは?
妹背(いもせ)=夫婦や夫婦の仲の意味がある。閨房は説明の必要はないでしょう!
要するに夫婦寝室考と言えるものです。他方で「鴛鴦」にした人の方が優美さを持ち合わせていたように思う。妹背閨房考ではなく鴛鴦閨房秘考ばかりが復刻されている現実がその証拠ではないだろうか?
また、古来のものに加え外来のものとある点に興味がひかれた。いわゆるオーラルセックスのものが含まれているが(椋鳥、さかさ椋鳥、二つ巴)、これを言っているのだろうか?この3つは69で、その、ほんま・茶臼・横取りとも言える。
鴛鴦を書いている際に少し浮いた感じがしていたがどうなんだろう?多くの春画を見た分けではないが、白光錦の類は(前戯としあそこを愛撫する構図)良く出くわす。しかし、69は見た記憶がないのも理由の一つ。いずれにしても、具体的にどれとは書かれていないために推測の域は出ない。
※3月3日追記---
葛飾北斎が描いた「富久寿楚宇(ふくじゅそう)」を忘れてた。構図はむく鳥(春画で読む江戸の色恋では二つ巴と説明していますが鴛鴦も妹背もむく鳥)です。クンニンはしているもののフェラはしていない。初期のものとしては「小柴垣草子(こしばがきぞうし」1299年の中にあるそうだ。しかし、古い写本にはなぜかなく、江戸中期ころから出て来ると言うもの??「増補新版 春画で読む江戸の色恋 白倉敬彦著」 に詳しく書かれています。
春画は誇張して描かれていて、女はおちょぼ口。巨大なものを口に含ませると美人が台無しになるからか?江戸の絵師たちはフェラチオしていない構図が多いようだ。歌川豊国「逢夜雁之声 第二部」に舐めるような構図のものがありむく鳥と言えますが・・・
こうなると、どれが外来のものなのか謎が深まるばかり。作者がクンニン+フェラの完全なものを見ていなかったからか?ウィキペディアによるとヨーロッパでは1790年にフランスで出版された本まではさかのぼれるそうだ!
---
体位の形として8つに分類しているところも面白と感じた。黄素妙論には九勢として9つが上げられてる。内1つは3Pなので二人となると8つになる。比較をすると、九勢には横取りがないし、鳳翔勢は男が立っているものの女は寝台で横に寝る形。立ちぼぼとと横取りの組み合わせとも言える違いがある。
黄素妙論は江戸時代に何度か発行されているようなのでルーツの一つと言えると思う。古いものと言えば「医心方」だが秘蔵や発禁処分などを受け広まらずいた。広く読まれる様になったのは戦後なのではないだろうか?(このあたりの経緯は長くなるので脚注扱いで最後に触れます)
最後に、老子の引用がありますが、そもそも老子は房中術について書いていないようです。(検索して見つかったページを読んだだけですが・・・)この種のことは、医心方でも取り上げられていることからも、古代中国では広く言い伝えられた内容のように思います。要するに、「精気を溜めることで若返ることが出来るが、無闇に施射すれば気を失い病に冒される」このことを言いたいのでしょう。そんなことよりも、切実な色欲をどうしてくれるか?と主張したかったのでしょう。
本文は前回書きましたとおり、暫く待って下さい。スキャンして拡大したら、ガリ版刷りの上に、紙も「わら半紙」(再生紙?)が使われていて、インクの滲みや、紙にもともとあった汚れ?などから字体が読み取りづらくしています。整理もしたいので暫く時間を下さい。
【医心方の経緯】
平安時代の984年に朝廷へ献上されたのが始まり。時代は下り16世紀、正親町(おおぎまち)天皇の時代に名医の半井瑞策に下腸さたが門外不出とした。ここまでは秘蔵され続けた。幕末になり圧力を受け期限付きで幕府へ貸与され1860年に履刻版(安政版医心方)が発刊された。幕府が倒れ明治に入ると政府は近代化を進めるため、ドイツ医学を取り入れ、それまでの東洋医学が見捨てられる。せっかく日の目を見た医心方も、今度は見捨てられた格好になった。
※同様に文化面でも西洋を尊ぶ風潮から、浮世絵も(春画やあぶな絵を含む)古紙同然に取り扱われた。パリに居たある日本人が、この紙たばを送らせ欧州で売られたことから、絵画などに影響を与えジャポニズムを生むとともに、大量のものがヨーロッパやイスラエルに(著名な収集家の死後、彼のコレクションが纏めてイスラエルへ寄贈されていたことが、近年になって判ったそうです)あり美術館などで展示されている。
20世紀に入り1907年に医学史を見なす動きから「日本医学叢書」が刊行されたが直ぐに発禁処分となってしまう。原因は28巻の房内編が猥褻だと判断されたためと言われる。(金港堂医心方事件)
(ここまでは 医心方〈巻28〉房内篇(リンク先はAmazon) 丹波 康頼 (著), 槇 佐知子 (翻訳) の「序」を参考にしました)
しかし、私は房内編がスケープゴートにされただけと思う。房内が猥褻なら28巻を除けば済んだはず。それを全て発禁処分にしたのは、医学会の思惑が見え隠れする。
今さら東洋医学などを持ち出されたら困ると考え、潰しにかかったのではないだろうか。傍証として、(言えるの自信はないが)明治天皇の脚気がある。当時の日本では脚気で亡くなる人が多く国民病になっていた。
天皇が患者となれば、第一線の医師団が作られ治療に当たったが一向に良くならない。一計を案じた側近が東洋医術の名医に頼んだところ、麦飯を食べろと言われ食事を変えたところ全快したと聞く。
この事実は公開されることなく、特に陸軍では多数の脚気による死者を出し続けている。海軍には脚気が少なかったことからも食事の問題。陸軍に入れば毎日銀シャリが食べられるがキャッチコピー化していた。いわゆる日の丸弁当が陸軍の通常食になっていたから脚気を蔓延させた言われる。脚気はビタミンB1の欠乏が原因で、白米はB1を破壊することが知られたのは後のこと。
東洋医術は科学的な証明によらずに経験則から纏められてものによるので説得力に欠け、非科学的と考えられたのでしょう。しかし、臨床のつみ重ねが重要と考えれば無視する事が正しいのか疑問を感じる。
日露戦争では、戦闘での戦死者と脚気による死者数は、桁が一桁違うと聞く。ロシア兵の証言にも日本兵はよろよろしている兵が多かったとも聞く。体がふらつくのは脚気の症状。海軍に発症が少なかったのは海軍カレーに象徴される様に洋食化した食事を出していたことから、ビタミンを副食から補っていたためだとも。
この国は自分達の利権やメンツに係わる問題になると、良いとこであっても闇に葬ったり反対する。
いつまでこの様なことを続けるのだろうか?政財官学・・・身の周りなど身近なところでもエゴがまかり通っている。(^^;;
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