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黄素妙論 交所吉凶之弁

黄素妙論 交所吉凶之辨

黄帝こうていふていわ
 男子だんし精汁せいじゅうもらすに年數ねんすうしたがひそのほうありや。
素女そじょこたへていわく。
 男子だんし二十さい滿たば三日に一らせ
    三十さいいたらば五日に一らせ
    四十さいいたら七日に一らせ
    五十さいいたらば半月に一らせ
    六十四さい以上いじょういてみだり不可洩もらすべからや
 當時とうじこのほうらずしてみだりに交合こうごうして、二十才三十才のさかんなる
 ぶんにちあいだ精汁せいじゅう三度みたび四度よたびらしあるひは五六たびゆへ
 に、中年ちゅうねんいたらずして白髪はくはつしょうじ五たいかじけいま老年ろうねんにもおよばずし
 て筋骨きんこつすくみ、腰痛こしいたむ、ついには諸病しょびょう蜂起ほうきしていのちをちヾむるものなり
 可 愼つゝしむべし



医心方の第十九「施射」に同様のことが書かれている。
前書きは省略して年齢別の回数は次の様に書かれている。

 十五歳で元気旺盛な者は一日に二度、痩せたものは一日に一度。
 二十歳は一日に二度、体がきゃしゃな者は一日に一度。
 三十歳で盛んな者は一日に一度、劣る者は二日に一度。
 四十歳で盛んな者は三日に一度、体が弱い者は四日に一度。
 五十歳で盛んな者は五日に一度、体が弱い者は十日に一度。
 六十歳で盛んな者は十日に一度、体が弱い者は二十日に一度。
 七十歳で盛んな者は三十日に1度、体が弱い者はしてはならない。

黄素妙論を読むと「エッ!」と思った人が多いのではないだろうか。
これを読むと大方の人は普通と思うのでは?

医心方には続きがある。
上述の回数は子供を望む時どうしたら良いのかとと言う
黄帝の素朴な疑問に答えてのものだ。

しかし、続きは何の目的なのかが一切書かれていない。
最初が子作りのためなのだから、残るは長寿を得る為なのだろう。

またに云う
 20歳は、2日に1度
 30歳は、3日に1度
 40歳は、4日に1度
 50歳は、5日に1度
 60歳以上は交接してならい。

その続きは「養生要集」の引用で年齢ではなく季節ごとの
回数なので割愛します。

その後に「千金方」に引用された素女の法が続き
 20歳は  4日に1度
 30歳は  8日に1度
 40歳は 16日に1度
 50歳は 21日に1度
 60歳は2度と施射したならない。
 もし、若者のような者は、ひと月に1度。

複数の説を羅列されるのも困ったもの・・・
養生(長生き)の法と見ても、黄素妙論と下の2つは違い
3つの説が在るように思える。

この3つの関係はないのかと数字を見ていると
医心方の2つの平均と黄素妙論の数が似通っている。
例えば、20歳だが医心方は2日と4日の平均は3日で
黄素妙論と同じ。全てが平均値ではないが、無関係とも
言えない様に思う。

また、10歳刻みで書かれている中で、64歳が奇異に映る。
これは、当時の人の壽命を考慮して道三が独自に書いたのか。

有名な武将の壽命を見ると、謙信が49歳,信玄が53歳,
秀吉は61歳で長生きした。最後に統一を果たした家康が
73歳と異常に長生きだ。

死語になった「人生50年」を思い出す。
室町から戦国時代の武将は長生きしても64歳と
言われていたのではないか?

洞入本手で、夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)時代の宮制について
書かれた「周礼」(しゅうらい)のことを少し書きました。

新月~満月までに121人を相手にするハードスケジュールです。
ここでも、射精をして良いのは4人だけ・・・

  

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黄素妙論 房中之薬術

黄素妙論 房中之藥術

黄帝こうていふていわく。
 房中ぼうちゅう藥術やくじゅつ持洩って奇妙きみょうることありや。
素女そじょこたへていわく。
 おいひたるをわかやかしめ、よわきをつよからしめけわけるをうるほすことこれ
 皆藥みなくすり効能こうのうなり、なん房中ぼうちゅうおいくすりなからむや。>
   ○綠鶯膏ぎょくおうこうこゝろふかおんなもちふべし。
     丁香ちょうじつぶ山椒さんしょうつぶ細辛さいしん龍骨りゅうこつ海漂蛸いかのごう明礬めいはん各々おのゝゝすこ
 みぎ種各細末しゅかくさいまつにして生密なまみつにこねて男女だんじょ交合こうごうとき少 許すこしづゝ玉門ぎょくもんおく
 にれて深浅しんせんほうおこなとき陰中いんちゅうかゆくふくれあたゝかにして津液つえき
 して無限むげんふかつゝしおんなおほべずこえ美快びかい姿現すがたあらはすなり。
   ○玉琑丹門ぎょくしょうたん男子だんし精汁せいじゅうらさざるくすりなり
     龍骨りゅうこつもんめ詞子じし炮去いりてかわをとる)二ふん
     縮紗しゅくしゃふん辰破しんはもんめ
 みぎ種各細末しゅかくさいまつにしてもちにて小豆あずき粒程つぶほどまるくし、交合こうごう以前いぜんに七八
 つぶ溫酒おんしゅにてふくすれば女人にょにん三人五人にふといえど精汁せいじゅうれざるべし。
   ○如意丹にょいたん
     石楠皮しゃくなんひ木香もっこう山藥さんやく蛇床子だじょうし呉藥香ごやくこう
 みぎ等分細末とうぶんさいまつにして交合こうごうときにつばきにてねやし玉莖ぎょくけいにとろりとり
玉門ぎょくもん指入さしい深浅しんせんほう可行おこなうべし老女ろうじょたりともまこと壮女そうじょ玉門ぎょくもん
 ごとくなるべし。
   ○壮腎丹そうじんたんおとこおとろへたるじんおぎな氣力きりょくし、玉莖ぎょくけいつよくす。
     丁香ちょうじ附子ふし良薑りょうけい桂皮けいひ山菜萸さんさいそう蛤蚧ましかいかくもんめ礬石はんせき
     水飛すいひ硫黄各いおうかくふん
 みぎ藥各細末やくかくさいまつにしてみつにてねり。むくろじほどまるめ、空腹くうふくとき
 つぶづつ、溫酒おんしゅにてむべし。無妻むさいおとこ率爾そつじふくすべからず。
   〇百馬丹ばんたん筋肉きんにくおぎなひ、玉莖ぎょくけい長大ちょうだいになす良藥りょうやくなり
     沈香ちこう乳香にうか木香もくこう免絲子めんしし、各五もんめ茜香しゃこう破故芾ふるきかみりょう
     ちょうじん四十箇去皮こかわをさる
 みぎ藥各細末やくかくさいまつにしてねりたるみつにこねて胡桃くるみほどまるくし空腹くうふくに一
 粒宛つぶづゝ溫酒おんしゅにてもちゆ、一ヶ月程げつほどおよばゝ玉莖ぎょくけいふとながくなりて一たん
 つよくなるなり
   ○寸陰法すんいんほう女人にょにん心底しんていよろくばしめ、おとこながくわすれざらしむ
     蛇床子だしょうし十二もんめ狗骨灰くこっぱい肉佳にくけい各三もんめ
     定粉でうふんもんめ
 みぎ種各細末しゅかくさいまつにして交合こうごう時唾ときつばにてねやし玉莖ぎょくけいりて浅深せんしんほう
 をおこなときおんなおとこおも事浅ことあさからずまこと千重万重せんじゅうまんじゅうなり


医心方は医術書なので薬はたくさん載ってます。
今、これを元に作ろうとしても手に入らないものや、害のあるのが含まれているようです。
秦の始皇帝が不老長寿の薬として水銀を服用しいたとか現代では考えられません。

こんな薬も考えられていたんだ思うだけにして置くきましょう。


  

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黄素妙論 道三之跋

黄素妙論 道三之跋

右此みぎこのさつ大明たいみんより國像こくぞう相交あいまじへたる印本我朝いんほんわがちょうるといえども、そのしゅ
深遠幽轍しんえんゆうてつにして淺覺せんがくその術卒じゅつただちならひがたし
そのほうたやすおこないかたきゆえそのことばまこと卑俗ひぞくなりもいえど明朝文字みんちゅうもじやまとこと
やわらげてひととして陰陽和合いんようわごうみちやす婚姻こんいん交姤こうごうおこな
やすからしめんとするなりあなが淫情いんじゅうもよほ遊興ゆうきょうこととするにあらず、
天眞てんしん至寶たもたしめ、壽算じゅさん永久えいきゅうならしめんとのみ
                   洛下雖知
                    苦齋静翁
                       道三dohzanSign
      于時天文二十一年正月八日
    奉授興
    松 永 彈 正 忠 殿
             畏 可 授


つゆ明けまでには思ってましたが、例年より早く梅雨が明けてしまい間に合いませんでした。
ようやくおわりです。ここで、明から天皇(朝)に送られた印刷物をやまと言葉に翻訳したことが判る。
最初に医心方を見たのではと書いた。もう一度整理して考えると遣隋(唐)使が持ち帰った素女経などの写本を元にしたのではないだろうか。

その理由として
1.医心方は見られない
 984年に天皇へ献上され1554年に半井家に下賜され、幕末の安政年間まで秘蔵されていた。これが書かれた天文21年1月8日は、1552年頃でまだ宮中にあったものと考えられる。

2.医心方の元はどこへ
 医心方は全30巻からなり今で言えば青本。医術の集大成であり膨大な書物が遣隋使や遣唐使が持ち帰り編さんしたもの。元となった書物を全て宮廷が独占して出さないのはとは思えない。

医心方の底本はどこに消えたのかの疑問があった。槇佐知子全訳精解版の前書きを読むと、安政元年に保有していた半井家に幕府から蟄居(ちっきょ)を命じられ、やっと、期限付きで貸し出した。この際には、一部の引用文献?や写本があり、これらを各巻末に礼記して付けたものが安政版医心方だという。このことから、少なくても幕府が借り受けた時には引用した資料も半井家で保有していた事が解る。
その後、明治維新を経て現代はどうなっているか読み取れない。多分ないのでしょう・・・

3.大明とは何か
 「大明より國像を相交へたる印本我朝來くる」この一文を明国から朝廷へ送られたと読んで良いのか?
 現代は中国と呼び、戦前は支那、その前は清国と呼ぶのが一般的だと思う。清の前は明だった。
 ここで言う大明は、現代で言うところの中国の意味ではないか?

4.道三は写本を見ているに過ぎない?
 仮に「素女妙論」の印本(木版刷り)が朝廷に送られていたとしても、せいぜい数冊だろう。医心方が道三へ下賜されたのであれば、同様に下賜されただろう。天皇家からそのような厚遇を受けてはいないのだから写本が順当と考える。

5.双梅景闇集書(葉徳輝編)によれば、中国の文献資料に素女経が登場するのは、唐時代までその後は見当たらないと言う。 


6.医心方は丹波康頼が一人で編纂したのだろうか?彼はプロジェクトの責任者で門人が作業にあたったのではないだろうか?複数で行う場合は底本が1冊では作業に支障が出たのだろと予想することが出来る。解決手段として先ずは手分けし写本したのだろうと想像する。下書きも下だろうし複数のコピーが残っても不思議ではない。
医師であれば自分の手元にも欲しいと思うのが人情ではないだろうか・・・


7.色々考えて居たところに「浦島太郎」の面白い話を見つけた。桃太郎は性教育だ言われるが、浦島の原文は日本最古の好色本だと言う話。

そもそも、助けた亀に載せられて竜宮城へ行ったは後世の人が書き換えてもので、釣りしていたところ霊亀(くすしきかめ)に出会い失神してしまい、眠っている間に霊亀が美女に変わり竜宮城に連れていかれてしまう。
竜宮城で繰り広げれた歓待は、男女の行為で医心方からの引用だと云う。
ここで着目すべきは「浦島子伝」は9世紀の半ば、続篇の「続浦島子伝」は932年に成立したことが記録に残っているそうだ。医心方は984年だから50年以上古い。

『閨の秘伝を教えます-紅閨禁秘抄』 福田和彦 著 の「浦島太郎と医心方」に書かれています。

これは同じと納得のするものとして「魚比目」と「鴛同心」。これは、「三十法(第13章)」に出て来る体位。又、前戯の部分は「和志(第4章)」にそれを見る事が出来ると言うのだが・・・
前者は洞玄子の秘技。後者は、玉房秘訣,玉房指要,玄女経が引用され素女も登場する。
この説は大きくは間違っては居ないだと思います。
遣唐使が(8~9世紀に派遣)持ち帰ったものを読んで創作されたとしても矛盾がないからです。

以上のことから、一部の人は遣唐使などが持ち帰ったものを読むことが出来たのでしょう。
写本も書かれ、秘伝の書のような形で限られた人の間で受け継がれていた。
その様なものを道三が入手して翻訳したと思います。

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